意識として存在している目に見えない『自分』。
それ以外の何もかも全部全部全部、幻。
意味ありげに見えていることだって、おおごとに感じる出来事だって
全部、幻。
この世に確定している事なんてなーんにもない。
※願望が沸いたら叶うのは確定だけど、ルートだのプロセスだの固定化された未来なんかないってこと。
現実だとか、あの人だとか、悩まされてるあれやこれだとか
ぜーんぶ『無』じゃん。
この世界に意味を持たせて勝手に大騒ぎしてんのも
願望に執着してんのも
喜んでんのも打ちひしがれてんのも
ぜーーーんぶ……
任意じゃん。
言い方変えれば勝手にやってるだけ。
別にやらなくてもいいことなのに。
全ては流れる景色(暇潰しで垂れ流してる動画って最近はよく言ってるけど)。
流しっぱなしにして放っておけばそのうち移り変わるもの。
なのに一々反応して、景色の一部を足止めしているだけ。
そうするもしないも任意。
意識(目に見えない自分)以外はホントにどーでもいいもの。
叶うだの叶わないだの、変わるだの変わらないだの、
そんなものに引っかかってること自体、エネルギーの浪費。
私の場合、恐れが強かった。
自覚なき黒幕辺りから徐々にそれは薄れていったんだけど、
それでもモヤ~ッとした恐れは拭いきれなかった。
色んなものに意味を与えていたからなんだよ。
あれはこれだし、だからこうしないと……みたいに、回路が出来てた。
現実に振り回されるっていう現実を知らない間に創ってたんだろうね(汗)
だから怖かったし、苦しかった。
意味なんかない。
……なんかホント急なんだけど、ふとそう思った。
この世のルール、意味すら『私』が勝手に創ってただけ。
それに対して勝手に苦しみながら従ってただけなんだよ。
愛着とか願望への執着とか反応とか、しちゃっても別にいい。
それも流れる景色の一種だから。
「あー……執着しちゃってたな~」って気付いたらそのまま流しちゃえばいいだけ。
執着したり反応しちゃったことをいつまでも気に病む必要もない。
気に病むのも、流してしまうのも、何も考えないのも、全て任意。
ぜーーんぶ、自由。
ルールやら意味やら現実に『私』を縛り付けてるのは『私』。
だって全ては『私』の僕なんだから。
ここにきて本当の意味で『思考停止』っていうのが有用だなって。
うーん、ちょっと違う。
なるは最終形態という意味がなんとなーくわかったって記事でも言ったけど、
メソッドじゃないんだよね……在り方。
叶える為に、考えちゃダメ、思考を止めなきゃダメ!ってことじゃないんだよ。
そもそも何も考える必要がない。
考えたければ考えても良いんだよ、それも任意。
だけど、何も意味がないものに意味を持たせたり、苦しんだり、しなくても別に良いんだよ。
しても良いし、しなくても良いの。
考える必要も重要性もないってだけ。
だったら何も考えない方が楽だし効率が良いよねってだけで、それも任意だしw
今日の記事は何も考えないで勝手に指が動いてる感じで楽だったなぁ(笑)。
……まるで自動書記のようでした。
本日も最後まで読んでいただきまして有難う御座いました。
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