一昨日の記事で、この世界は全て透明で何もないのではなかろうか?という考えに至ったと書いたのですが、
じゃあ現実化とはなんなのか?という話を書いてみたいと思います。
とはいえ私もまだまだ理解が足りないかもなので、話半分に聞いてください。
イメージしてください。
目の前に広がる物も、景色も、他人も、良い事も悪い事も、
『私』も、時間も、感情も思考も、言語もなく、
ただただ透明が広がっているだけの世界……。
なーんにもありません。
この「なーんにもない世界」こそが自分の本質であり、スピ界隈で言われている『内面』です。
この内面にはなにもないし、全てあります。
世界の全ても何もかもこの内面が作っています、『私』さえも。
現実世界は全て自分が創った物だという事を前提に現実世界を見渡してみれば、
好ましい物も好ましくない物も全てが『既にある』のがわかると思います。
大好きなあの人も、大嫌いなあいつも、幸せも喜びも愛も、トラブルも貧困も、
「ある」も「ない」も全部あるんです。
内面には全てあるので、そこから何でも好きな物を選べば良いだけです……が。
現実に囚われて振り回されていると、「上手くいくはずがない」などのような、
望んでいる事とはまるで逆の『認識』が湧き上がることがよくあります。
そしてその通り、「上手く行かない……やっぱりな」な現実が創られてしまい、
更には上手くいかないという『認識』が強固になってしまうという循環が起きたりする。
スピ界隈で言われるループです。
なーんにもない世界では、本当になーんにも起きてないんです。
現実世界という幻覚を見て錯乱している状態なだけ。
成功体験のまとめなどを読んでいると
「頭の中お花畑状態でいたら、なんでかわからないけど状況が好転した」という内容がよく見かけます。
望まない現実の問題に躍起にならず、望むことに焦点を向ける。
こうなったらこんな気持ちになるだろうか?とワクワクしてみる。
望むことに焦点を向け、ワクワクするという事は、内面で先に『経験』をしているという事。
聞いたことありません?内面が先、現実は後って。
内面で気が済むまでそういう『経験』を重ねることで、徐々に『認識』に変わり、
それから現実が変わり始めるんです。
鍵は『認識』なんですよね。
認識とは……認め、知ること。という意味。
物事を見分け、判断する。という意味合いでも使われるようですが。
私達は、空がある山がある海がある……というのも認識していますし、
テレビやPC、スマホなんかも認識していますよね。
大好きなあの人、大嫌いなあいつ、美味しい食べ物、お金も認識してる。
簡単、難しい、大変、楽しい、困難……例を挙げればキリがないくらいに認識だらけです。
その全てどれもこれも、一つ残らず例外なく、現実世界に反映されている。
ぼんやりとした疑問が浮かびませんか?
物心ついた頃の現実世界とはどのような世界であったのか?
物心つく前の世界を創ったのは誰なのか?
赤ちゃんは物や景色や諸々を認識していません。
赤ちゃんの頃の記憶がちゃんと残ってる人なんてそんなにいませんよね?
でも「赤ちゃんの頃があった」のは当たり前のこととして認識してると思います。
親兄弟の思い出話だったり、
赤ちゃんの頃の写真というアイテムに裏付けされて『認識』しているはずです。
もしかしたら赤ちゃんの頃なんてなかったのかも知れない……という仮定は長くなるので端折ります。
認識がないのに世界が展開していると仮定すると、
内面……別の領域的なものが、『私にとっての最適』を自動的に創造してくれているとも考えられます。
別の領域的なものは『認識』という物を必要とせずに現実を創造できるのかも……と。
世界や私なんていう分身を創り出している時点でその可能性の方が高いのかも。
……と、いうことは、です。
達人の一人に元祖一式という方がいます。
「思考をとめる以外の思考を停止する」
「五感を含める全ての思考を停止する。
そうすれば完璧である潜在意識が『自分にとっての最適』を与えてくれる」
というメソッド(?)を広めた方なんですが。
その方の言葉を借りると、
「潜在意識(別の領域的なもの)は既に完璧で、
何も願わなくても何を望んでいるのか、何が最適なのかお見通しだ」と。
だからあれこれ考えるより、思考停止して潜在意識(別の領域的なもの)に丸投げすればいいのだ、と。
認識だとかなんだとかゴチャゴチャ言っていた割には、結局思考停止に終始するっていうね……(汗)
望む物を当たり前の『認識』に刷り込むのを楽しいと思ってやれる人ならそうすれば良いし、
面倒臭い!別の領域的なものに丸投げした方が楽っていう人は思考停止すれば良い。
全てはなくて全てあるって事が信じられるなら、どっちを選んでも悪いようにはならないから!
本日も最後まで読んでいただきまして有難う御座いました!
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